窪田次生さんの死を悼む

2005.5.30


 霧島工業クラブの設立者の一人でもあり、初代(平成4年)及び第10〜12代(平成14〜16年)の代表幹事を務められた窪田次生さんが平成17年5月27日午後5時5分に永眠されました。昨日サニー・シーリング社葬並びに告別式が厳粛に行われ、永久の別れを致しました。

 昨年の秋頃から体調を崩され入院。治療に専念された結果、一時は回復され4月の入社式に臨まれるなど、周囲も安堵しておりました。ところが5月に再び病状が悪化し、ついに還らぬ人となりました。今年10月に還暦を迎えられる予定で、仲間で盛大にお祝いしようと思っていた矢先の早すぎる死でした。

 窪田さんは昭和20年10月に島根県に生まれ、株式会社サニー・シーリングの創業者として日本はもとより世界でも有数の技術を持つ会社に育て上げられました。その先進性と経営者としての能力は高く評価され、経済界のリーダーとして大きな期待が寄せられていました。

 社業に邁進される一方、地域の発展のためにも尽くされ、霧島工業クラブをはじめ数々の団体の要職を歴任されました。特に霧島工業クラブには心血を注がれ、平成4年の創立から運営をリードし10周年を迎えた平成14年に再び代表幹事に就かれると、将来を見据えた事業計画を作成されました。一つは地域の特性を活かした産業クラスター造りであり、一つは「三廻組(みまわりぐみ)」の創設です。

 産業クラスター作りでは農業と工業の連携に取組み、いくつかのプロジェクトが生まれました。その中の「ワインづくりプロジェクト」は事業化を目指し、平成16年1月には有限会社都城ワイナリーを会員で設立しました。「できるだけ地元の技術を使ってワインを作る」ことをコンセプトに産学官を巻き込んで現在進行中です。

 昨年、吉之元町のワイナリーにぶどうの苗を植えると窪田さんは週末には現地に行き、苗の世話をしておられました。汗びっしょりになり、昼休みの缶ビールを本当においしそうに飲んでおられた姿を思い出します。ワインの出荷は2010年の予定であり、窪田さんに飲んでもらえなかったのが本当に残念でなりません。

 また、「三廻組」の創設にあたっては人間は干支の3廻り、すなわち36歳までに大まかな人生のレールが敷かれてしまう。それまでに組織や所属といった枠を越えて、地域に変革を起こすような行動を起こして欲しいという願いが込められています。現在3つのグループが出来て活動中です。

 他にも窪田さんは持ち前の発想力でいくつもの構想を出されました。窪田さんの素晴らしいところは、そうした夢を夢で終わらせないというところです。どうしたら実現できるか考え、問題点は冷静に分析、的確な指示を出しておられました。常に行動ありという姿勢は我々後輩の目標になっています。

 さらに陽の当たるところだけではなく、障害を持つ人などにも心を寄せられていました。小さな縁も大事にし、陰日向なく、地位の上下なく何人にも正面から向き合う。そんな窪田さんの姿も忘れることはできません。

 偉大なるリーダーを失った私たちですが、窪田さんの遺志を継いで地域の発展のために頑張ります。これからも霧島工業クラブに御支援、御指導を賜りますようお願い申し上げます。


平成17年5月30日
霧島工業クラブ代表幹事 朝倉 脩二