今年ももう3月である。渓流釣りの解禁ではあるが、ちょっと忙しかったり、流行りの風邪を引いたりで釣りにもまだ行けずじまいである。
 それにしても今度の風邪にはエラい目にあった。鬼の攪乱などと笑う向きもないではないが、兎にも角にもそれどころではなかった。それどころではないが、休みになるとやっぱりウロウロと川なぞを覗きに行くから余計にいけない。不覚の半月を過ごしてしまった。
 若い連中が高岡で練習すると言う。どうにか体調も戻ったのでついその気になり、出かける旨約束をしたら当日はドシャ降りであった。啓蟄も過ぎたとはいえ春まだ浅い。大風が吹いてドシャ降りともなれば、やはり寒い。それでもここで行かねば若いモンに示しがつかない。鼎の軽重も問われかねない。
 と、マァ、そこまで考えたわけでもないが、我ながら軽く出かけてみた。


 河原に降りたら対岸の崖に山桜が咲いている。この大風と雨で咲いた先から散ってしまうであろうから満開は望めそうもない。それでもこの淡い色は美しいと思う。
 ちなみに、私はあまり桜は好きではない。花火と同じでいさぎよいとして日本人には好まれてはいるが、それも程度ものである。確かに花は美しい。ハラハラと散る風情も良い。であるが、葉桜になるやいなや毛虫の大群が住み着く。これはマァ仕方がないか。腹が立つのは、秋風がソヨッとでも吹けばもう葉っぱを落として冬眠している。他の木々はまだ夏のたたずまいを残しているのにである。あまりにも横着ではないか。これが私の桜の嫌いな理由である。
 しのつく雨。そんな生やさしい降り方ではない。まさにドシャ降りである。私なんぞは上下の合羽にビーチパラソルをさしている。そのビーチパラソルの柄を首と肩で押さえながらシャッターを切っている。高感度フィルムをもってしてもこの条件では適切な撮影状態は無理無理。手ぶれピンボケは承知の上である。
 練習用にと冬の間に若い連中がロープを張りゲートを作っている。ロープは工事現場などで使っている一番安いものらしい。黒と黄色の縞々になってるからトラロープと称していた。言い得て妙ではないか。
 トラロープに竹のゲート。雨にけぶる墨絵のような情景。そこに赤や青のカヌーを漕ぐ若者。中国四千年の歴史も真っ青である。
 我らが都城カヌークラブのゆう子お嬢様も、この雨の中機嫌良く船を漕いでる。宮崎県のミスターカヌーである山下が檄を飛ばす中で喜々として漕いでいる。
 今年の熊本国体ではがんばって欲しい。と、陸に上がってしまった老兵はビーチパラソルの下で想う。
 今年は、人吉の球磨川で国体が開催される。しかも、宮崎県は九州ブロック予選会の担当県でもあるから、それなりにそれなりのことをしなければ格好がつかないわけもある。それでも、ありがたいことに若い選手が育ちつつある。
 ただ、私なりの杞憂もある。カヌーはただの競技ではない。若い選手が、大学をやめたら、国体に出たらもうカヌーは漕がないでは困る。これからの長い人生を生きていく個人のスタンスとしてのカヌーもあるのである。自分のスタンスを持たずに生きるよりも、きっちりと自分のスタンスを持つべきである。それはカヌーでも良いではないか。ナァ、若い衆よ。と、陸に上がってしまった老兵はビーチパラソルの下で思うのである。